2021/12/23 父の事について、私は殆ど知らない。
私は産れてから物ごころがついて学校入学まで祖父母のもとで育った。
学校に通うようになっても夏休み冬休みはもちろん土曜日の昼過ぎには祖父が迎えに来ていた。その間父は仕事、話などした事もなかった。ただ私にとっては「恐い人」ということくらいしか残っていない。家族の誰も私をかばってくれなかった。父に直接何かを相談する事はなかった。私の人生の半ばを過ぎた頃やっと自分の今の生活が父の力によるものだと知り心にしこりを持ちながらも感謝するようになった。
何一つ趣味や楽しみもなくただ仕事だけ、楽しみは仕事だけだった。
だから老後費用の高い良い施設に何の心配もなく入居出来たのだと。
それも父の人生だったのかも…。

母の事について、大阪の中心にある女学校を卒業し就職、いまだにその間に出来た友達と交流がある。父の仕事の事務の手伝いが少なくなった50代半ば過ぎからはからは近所やお稽古(民謡・三味線・スイミング)など次々に友達が増えていったようだ。独身の頃には南極探検の永田隊長(?)もお友達だったと聞いた。余り自分にかかわる物事を緊迫感をもってとらえない人、特に60才ぐらいからは…私にはそう見えた。
でも認知症が進んでから父につらく当たったのは心のどこかに若い頃の結婚生活の父に対する我慢や不満があったに違いない。
80才頃から母は「父と別れたい」といつも言っていた。けど結局ずーっと一緒だった。多分私に愚痴を聞いてもらいたかったのかも…。
2021/12/18 昨年4月8日夜就寝中に母が亡くなった。94才。
夜11時頃、看護師さんが見回りをした時にはよく眠ってるようだった、12時過ぎの見回り時に息をしていなかったので医師を呼び死亡を確認した、との事。その年のはじめには心臓に問題があり入院していた。

今年9月27日父が亡くなった。99才。
安らかな最後だったと云う事。

母が亡くなって1年半足らず、コロナで面会も出来ない中、時々看護婦詰所に電話で父の様子を尋ねた。相変わらず「食っちゃ寝」の毎日のようだが6㎏も太ったとの事。ビックリしたが、認知症の進んだ母が耳が聞こえにくくなった父に話しかけても父からは「えーっ?えーっ?」という返事だけでまともな会話が出来なく、母の苛立ちで父も辛かったのだろうと思うのみ。その状況から解放されて心安らかな毎日だったのかも知れない。
2019/01/23
ボケの花
梅の花に似ているが
臭いなし!
昨日両親の住む施設に行って来た。何も用事はなかったけど…。母の好きな甘いケーキを持って。
昨年11月7日室で転倒、大腿骨骨折、「とうとうやってしまったか」です。
あれほど注意していたのに、11月12日に手術、その後リハビリ、その間にも転倒を何度か、これまでのように歩けると頭では思っているようで…。
リハビリ中も内臓の治療でまた転院。年も年なのでこれ以上のめざましい回復は難しいと云う事でその後は施設に帰り介護室でリハビリを受けている。
昨日、もうかなり痴呆が進んできているのを感じた。
どうなんだろうか?「父が施設の自室に女性を連れ込んでいる」と言う。何度も何度も同じ事を言う。「絶対そんな事はないし出来ない」と同じように何度も言う私。「仲良う歩いているのを見た」と言う。「看護師さんかヘルパーさんだと思うよ」と。3分で又同じ話。 また 。 きっと若い時に女性問題でくやしくてつらい事があったのだろう。そんな事母からは一度も聞いた事はなかったけど…。 
30分程で父の様子を見に行こうとするとヘルパーさんから「父にお風呂に入る様勧めてほしい」と言われた。母も車いすで一緒に行くと言う。 父は寝ていた。少し3人で話してからお風呂の事を伝える。イヤそう!
自分で電話する、と言うので、かなりひつこく言ったので大丈夫だろうと思う。家に帰って夕方に施設に電話する。お風呂に入ったそう。良かった!

これまで知人から年老いた親の介護についてイロイロと聞いて「大変だ!」とは感じていたが、関わる身内の精神的な苦痛は深く考えてもいなかった。
関わる事に関しての肉体的精神的負担はもちろんの事、その中に置かれている自分の精神状態はその空気が24時間支配している。そんな事想像もしなかった。
2018/09/23
去年アスファルトからの1輪の
千日紅の種で
上記写真の何倍もの花が
咲きました。
今日までいろいろの事があったけど このページに書く事自体が苦痛だったので…。
この半年の間に父も母も施設での食堂に行かなくなり食事は部屋に運んでもらうだけになった。 と云う事は半年足らず施設の建物から出ていないと云う事。事実そうだった。弟嫁は母を外食に連れ出してくれていたようだが、それも四六時中というわけにはいかない 聞いたところ一度だけ。  緊急で部屋で転んだとかで静養室に運ばれたとかはあったがそれ以外の 外で空気を感じる事はなかったようだ。そのせいか母の認知症もかなり進んでいる。弟嫁が云う事には 私と母の姉との区別が出来ていないようだ。 私は何度死んでいるの?です。
先々週 母からの電話で「この施設も潰れたみたい、誰も外にいない」と云う。そして「もう3日も何も食べてない」と言う。そんな事あるわけがないと思いつつ施設に連絡を取るがやっぱりでした。自分が廊下に出ていないので外の事がわからないのだからと言うと、ヒステリーのように金切り声で反戦してくる。
だんだん慣れて来るというのか、対処のしようがわかってくるというのか、「こう言えば」 「こう返って来る」というのを考えて話す事が多少身に付いてきた。認めたくない物を認めざるを得ない、そんな心境なのかな? それとも年老いた母にきつい事を言いたくないと云う気持ちか…。   先週月曜日にそんな食べてないと云う思い込みの母が気になって「パン、お菓子、飲み物」を持って訪ねた。 翌日弟嫁が訪ねた時 母は「昨日姉ちゃんが来てくれた、私より年上なのに若かった」といったそう! やっぱり!!です。 私という存在の意識がないようです。それでも今日母に 「どうしてる?」 と電話だけしました。   いつか行く道です。
 
 2018/02/22
支笏湖の氷濤 
 10日位前に北海道のお土産を持って久しぶりに両親を訪ねました。
父がテーブルの上にお金を広げていました、そして「お金が盗まれた。泥棒や」と言っています。「去年もこんな事があった」と。 違うのに!去年の事は母が 勘違いかどうかは定かではないが何人かの人にばらまき状態で渡してしまっただけのこと。私はわかっている。
父はあの時は私が取ったと言っていたが、母は何度言っても本当の事は言ってくれなかった。
今回の事はその間私は行っていないので疑われる事はなかったが、弟嫁も預かる事はせず、母のバックの底にしまったと言っていた。
きっと盗られたんじゃないと思う。同じバックの中に入っていた母の財布の中にはお金が残っていたもの。
「ここはこわいところやで」と母 「………」私
多分どんな施設に入っても同じことが起きると思う。
父には「大きなお金は母に預けないように」と言ってきたが…。
例え親子でも金銭面でのトラブルは一番嫌な事。
お金に対する執着心は人一倍なんだから管理面も母に任さず父がすればこんな問題も起きずにすむのに、 と思うのですが「言っても無駄!」の一言ですハイッ。
 
 2018/01/10
 去年の紫陽花を
ドライフラワーに
しました。

 また一つ年を重ねました。
年末母に電話をして泣き言と愚痴を聞きました。
伯母の相続で後の手続きを弁護士に頼んだので、何か進展があったら伝えに行くから、と電話を切りました。
1月1日は両親にとっては1年に1度の外出で弟の家で息子や孫ひ孫と一緒のお食事。毎年の恒例行事、Mさんご苦労様でした。そしてお疲れさん!
去年は「楽しかった?」と翌日電話しましたが、今年はやめました。あることないこと?じゃなく ない事をいかにもあったように言うので…。
2日昼頃母からの電話が留守電に、15時にもあり、それからも3回、合計5回の留守電。「あんた、来る言うからずっと玄関で待ってた」「今3時やけどずっと待ってたからもう足が棒みたいになって」「死にそうやわ」云々、金切り声だった。
何も約束はしていない、どう解釈してそうなったんだろう?
施設に入ってからの2年で急激におかしくなっている。
私の中で処理するしか方法はないと思う。
私自身がおかしくなりそうだけど…また暫く時間を置こうと思う。
  
 2017/12/10
久し振りに
マフラーを編みました。
息子に 
 先日広島の伯母の遺品が届いたので2日前の金曜日母の所に届けて来ました。アルバム・マフラー・ポーチなど入っていました。
わずかばかりの銀行預金と伯母が親から相続した土地家屋を相続権のある母と母の弟(亡くなっているので代襲相続人)で分けなければいけないようです。法務局に行って現在の名義人を確かめ、その代襲相続人が何人いるか?どこにすんでいるか?連絡の取れない人がいます。それを任されてきましたが、連絡先がわかってもどういう事情か電話連絡が取れなかったり、住まいもわからない人もいて、昨日1日頑張りましたが得る物が少なかったので疲れました。
警察・市役所・お寺など  どこも個人情報とかで理由を話しても情報をもらえません。かろうじて菩提寺が親子関係など教えて下さいました。これも書き留めて戸籍謄本から確証を得なければなりません。もともと私には何の相続権もないので、これ以上の事は弁護士さんに相談しようと思っています。
  
 2017/11/19  
今年も咲きました。
 午前中母から電話あり。
2~3日前に広島の姉が亡くなったのでしんどかったけど行って来た。親戚の人が来ていた、という。
認知症の人には話を合わせた方がいいと聞くがそうも言ってられないと思い
「お母さん夢みたのとちがう?」と言った。「伯母さんが死んだのは8月18日で私が葬式から納骨まで済ませてきたやん」「やっぱり気になっていたから夢にみたんやわ」というと納得した様子。
そして「アッ お父さんトイレから出て来はったから切るわ」と云う。
やっぱり若い頃のスリコミはすごいと思う。とにかく今になっても「こわい」と云う感覚が残っている。 私もそうだった。けど離れてからの期間が長いのでその分薄れてきているように思う。私のとっては「親」だから多少無理はしても出来る事はしたいと思って来た。けど父も昔のように大声での恫喝、手が出る事はもう出来ないだろうし、 そうして家族を従わせてきた結果が今の状態を招いたのだろう。
  
 2017/10/13    4~5日前久しぶりに母と電話で話す。相変わらず!弟嫁の言う通り、「もういつ死ぬかわからない」とか「頭あかんわ」とか、暗くなることばかり。   「こんなことがしてみたい」とか「あそこに行ってみたい」とかの前向きの話はない。それが慣れた生活なのだろう。そう思う。ゆっくりでも短い距離でも歩けるのだから場所は限られてくるが外出は可能なのに、「途中で何度休憩してもいいから出石にそばを食べに行こう」と誘っても「又にしとくわ」と云う。いつもの答え。母の手術の後も「退院したらゆっくり温泉へでも行こう」と何度も何度も言っていた父。 あれから3年足らず何も言わない。そんなことの繰り返し。私は「あ~また言うてるわ」しか思わないが弟嫁は真剣にとらえていたのがいまでも弟嫁との笑い種となっている。
  
 2017/09/06    8月12日に友達が旅立ち、18日には母の姉、私にとっては伯母が95歳でなくなりました。
その2~3日前に「久し振りにこの週末にでも顔を見に行こうかな」と考えて施設に電話して「何か必要な物」があればと尋ねていたところでした。
19日早朝から広島へ向けてハンドルを握りました。
日中は36℃という暑い日、神式の葬儀、神社にはエアコンなし、窓からの風と扇風機のみ。少しでも血の通っているのは私一人。
以前に住んでいた自宅近所の方2人とお世話になった施設の方2人と成年後見人の方。
全てが終わったのが夕方6時前。暗くなってからの高速道路と一日での往復には自信がないのでビジネスホテルに泊まり、翌朝朝食を済ませ8時に帰路に着きました。11時に宝塚IC、そのまま両親の施設に行き報告をして預かって来た香典を渡し、自宅へは13時に帰りつきました。
次の日香典返しを送る手続きをして、礼状を送って…。
2日後に熱が出て喉の痛み、8月末までスッキリしない体調でした。
私の目に入って来る「人間の死」 いつもと違った環境の中にいる時間は漠然と捉えてましたが、いつもの時間を過ごすようになると改めて考える事の大切さを感じました。
多分この感覚が自分の順番もいつか…と云う受け入れにつながるのでは…。
  
 2017/08/17    洗濯物干場の柱に巻き付いたムカゴ、秋の気配です。沢山実がなっていました。
2~3日前息子と話した。
加代ちゃんは5月まで元気で外出もし楽しんでいた。私の両親は歩けるし何でも食べられるのに施設のカーテンを閉めた薄暗い部屋に閉じこもったまま、それに付き合わされている母。
これって何?
「おじいさんはまだ学ばなあかんことがあるから生かされてはる」と息子は言う。
今年のお正月にあんなにひどいことを言われているのに…。
父が学ばなければならない事ってなんだろう?
人間には考えの及ばないことかも。

弟夫婦お盆のお墓参りに行ってくれたそう。
ご苦労様でした。
 
 2017/07/14 PARTⅡ   思い出しました。母に伝える事。
お風呂の事でした。「日曜日にヘルパーさんがお風呂を介助して下さるので」と伝えました。が「私もう入ったから」と云う事です。
もういいやん!いやだったら入らなくても…。そう思う。
だた私は私しか言えないから「臭う」と言うしかない。
それよりもウソをついてまで入りたくないなら、それが痴呆症だと思わないと仕方ない。
見え見えの嘘をついてまで自分を通そうとするのもそれはその人の生き様だと思う。
  
 2017/07/14
 

胡瓜の糠漬け
 Mさん昨日はお電話ありがとうございました。
誰かが言わなければ仕方のない事だと思います。
それに加えて母のもらっているお薬が効き目がきつすぎるのでは、と思いませんか?多分施設の内科の先生が出されたのだと思いますが、母も何も言わず結果だけを受け入れているのでは?看護師さんもこの様な結果が出ているのだから先生に言ってくれてもいいと思うのですが、そこまで手がまわらないのかなぁ。もう少し穏やかな効き目のお薬にすれば…。
ともかく昨夜考えていつまでも放って置ける事じゃないので、もう休んでるかなと思いましたが、持ち越したくなかったので9時前に母に電話しました。
母は「そんな事ない」と言ってましたが「食堂のイスを汚したのは1度じゃない、物を食べる所だからそのうち周りの人も気付くよ。」本当はもう気付いてても誰かわからず黙っているのかも。
部屋に入った時の臭いについても「お父さんは何も言わない?」と聞いても「何も言わない」そうです。もともと臭いには鈍感というか、臭いのない人だから当然かも。
多分「水状」のものだから出ていても本人は気付いてないと思います。普通なら臭いで気付くと思うのですが、あの年になり痴呆が入ると鈍感になるのか、それとも本人の感覚の問題かも。
Mさんがたくさん紙パンツを持ってきてくれていると言ってました。「毎日履き替えたらいいから」と言っておきましたが、本人は汚れた下着を丸めてビニール袋に入れているくらいだからわかっているはず。本人がどうしても紙パンツがいやなら、そのうち布の下着がなくなってしまうのを待つしかないかなぁ。だって汚れても丸めて捨てるんでしょ。
①薬の効き目がきつすぎる事を施設に伝える。
②布下着の買い物を頼まれても紙パンツにする。
それだけだったかなぁ…もう一つ何かあったような気がします。
う~~ん、また思いだすかも、時間がたてば。
  
 2017/0705
玄関の紫陽花
白・ピンク・水色
カラフル! 
 月曜日母から電話あり、いつもの通り「しばらく声をきいていないから」と、そんなことないはず。けど「そうやね」と返事する。
私が病院に薬をもらいに行く時間だったので「後で電話する」と早々に電話を切って病院に。
返って来てからは昼ご飯の支度。
夜電話する、別にこれと云った用事はなし。父が「用事がある」との事だが母に聞いておいてほしいと頼む。電話で大声で話すのは体力も気力も使い切る。都合の悪い事は「エーッツ、エーッツ」と聞こえない振り。弟嫁も同意見!
昨日施設から電話で「月曜日夜母が38,4度の熱をだした、今朝は平熱になっていました。何かあれば連絡します」との事。また肺炎の前兆かも…。
24時間施設の部屋に籠りっぱなし、どう出来るのだろうか?
  
 2017/06/11
   暫く施設からも両親からも連絡なし。
落ち着いている様子。 よかった!
先週弟嫁Mさんが行ってくれた。ご苦労様。
ポータブルトイレ、コンパクトだけど使い心地は良さそうとの事。
何も言って来ないと云う事は何となく暮らしていると…。
それが一番有難い事かも。
  
 2017/06/05
 
カラスに取られる前に
収穫しました
 3日にポータブルトイレが届いたと母から電話があった。
早い~っ!24時間で届いた。
「今、施設の人が組み立ててくれてはる」と言って。
注文も支払いも私だが送り先だけ施設にした、もし大きな物だったら車に乗せるのも向こうで運んだり組み立てたりと私一人では大変だと思って、前もって施設に電話でお願いしておきました。
母が聞くので私が支払う事を告げる。「いつも弟ばかりに頼んでいるので、たまには私が…」と言うと母は「あんたとあの子では持ってる¥が違うのに、わるかったねぇ」  …… 複雑!!??
そうなんだ。
  
 2017/06/02
ギボシ 
 弟嫁から2~3日前に電話あり。
ポータブルトイレの件、今日注文する。
御主人を何年間か介護してこられた方に聞くと介護用品はレンタルが便利だと、施設から勧められ介護用電動ベットも弟は購入したが、今更どうしようもないが、レンタルの方がよかったみたい。今日も弟嫁と話す、何もわからない事だらけで、施設から勧められたらそうするしかないように思ってしまうがもっと賢くならなあかんねぇ。と意見が合う。
  
 2017/05/29
収穫真近の
枇杷 
 先週土曜日に弟夫婦が施設に行く予定があると言っていたので、施設に行った時に借りているポータブルトイレの形などを見て来てもらえたら、と頼んでおいたが…借りれるのも5月末までと聞いていたので。
何の返事もないが…忘れているのかしら?
まあいいか、である。
まさか話は聞いているのだから施設もいきなり引き上げる事もないだろうし、
介護保険証の事も気にはなっているが、  届いていない時は催促の電話は早いのに、いざ届いても何の連絡もない。腹立たしいのは仕方ないけど、もういい加減あきらめの境地!
なるようにしかならないし~…である。
年老いた親を相手にしていると云う事はこう云うこと。
私一人が頑張って動いたらしんどくなるだけ。
いつまで付き合う事になるかわからないのだからちょっとだけ気長に…。
  
 2017/05/21    介護保険証の件、やっぱり母は去年の事を言っていた。
弟嫁が役所に電話で問い合わせたら5月23日以降の郵送になっているとの事。
何を信じていいのやら…、両親の云う事100%は信じられなくても、その内容によってこちらは対処してしまう。

母は3月の退院以後ずっとポータブルトイレをベットの横において使用している。それは施設から借りているとの事。3か月以降は自分で購入してもらいたいと施設側からの連絡。
ネットで調べてみる。施設での購入では5~6万円。ネットではオールプラスチックで13.000円余り、5~6万円ではひじ掛けは木製、ペーパーホルダーや小物入れなどもついていて高さ調節も出来る。
数か月前父の介護ベット購入にあたっては弟が全額支払ってくれているから今回はたとえ額は違っても私が出そうと考えている。
余分な事だがその「介護ベット」も役には立っていない。背もたれを起こす、膝を立てる、高さを調節するなど………。リモコンは使用されず、なくても良い状態。喜んでいるのは業者だけかも。
こんな事の繰り返し。
「喜んでもらえてよかった!」というこちら側の満足感は皆無。
あの年の両親と接すると云う事はこう云う事なんでしょうね。
それでも目の前の事の解決はしなければならない。
  
 2017/05/19
   介護保険証の事、昨夕母に電話する。
「5月になって着いたけどすぐいつもの女の人が来て持って行きはった。」と言う。
「預かり証もくれなかった」と母は言っていたが。
「いつもの女の人」?お掃除に来るヘルパーさんじゃないだろうし、部屋に様子を診に来られる看護師さんだろうと思うけど、それにしても昨日の時点でまだケアーマネジャーの手に渡っていないのはちょっとおかしい。
それとも母が保険証を受け取った日を間違えているのかも…。
ケアーマネジャーさんが今日はお休みなので明日にならないと詳しい事はわからないとのこと。
その後弟嫁Mさんに電話で確認したが彼女も保険証の事は知らないそうだ。
悪用される事は考えられないが、多分母が……だと思う。
  
 2017/05/18

柚子の花が
咲きました 
 今日午前中施設より電話あり。
介護保険証が届いていないか、連絡がないかとの事。
郵便受けには新聞とか自分で取りに行っているのだが、これまでも「介護保険証」は施設の手続きのため届いたら施設受付に持っていっていたが、届いていてまたどこかにしまい込んでいるのかもしれない、ならまた見に行かないと…。
病院の予約票など終わったことの書類でもしまい込んで何もかもわからなくなっている事が多い。それを整理すると「あの人が来て無茶苦茶にしてしまった」と言われる。
それから私はさわらないようにしている。
病院に行く前日電話で「明日、保険証診察券を用意しておいてね。何時に迎えにいきます。」と。無理かもしれないと思ったけど、…案の定車の中で確かめると診察券がない。取りに戻る。仕方ない事だったのかなぁ。
でも施設に入ってからは特別な治療以外は病院に行く事もなくなったので助かっている。 と云う事はこれまで行っても行かなくても良い様な病院にまで行っていたということ? 国立循環器病院や自宅近くの泌尿器科など、気休め?
事実、吹田の循環器病院の先生は「お年もお年ですのでもう積極的に出来る治療はない。検査だけでしたら近くの病院の方が楽ですね。」と仰っていました。けどその後も吹田まで何回通院したかしら?
感謝の気持ちや良い思い出も、年老いて記憶力が弱くなり、本能(?)がむき出しになった両親に接していると少しづつ薄らいでいく気がする。
私って冷たい人間?
  
 2017/05/03    来週火曜日は母のアルツハイマー」の診察日。
その日までちょっとゆっくりしておこうと思います。
ゴールデンウイークの始まり、どこへ行ってもお食事をしようと思っても一杯! 私が小学生の時は長いお休みがあると母の父、つまり私にとって祖父が迎えに来てくれて就学まで過ごした田舎に行っていた。そして始業式の前日まで畑や田んぼについて行き野山や小川で遊びまわっていた。
祖母の作ってくれたお昼御飯を祖父と山の小屋や土手で食べる。
お天気が良ければ毎日がハイキングのようなもの。
両親と遊びや旅行になどは一度もない。祖父母とはいろんな所に連れていってもらった。遊園地に行けなくても毎日の野山が遊び場だったような気がする。今思うと充実していた。
弟は誰に預けられる事もなく両親の元で大きくなった。
自分の子供であっても働き手にならない女の子は邪魔なだけ。
男の子は跡継ぎ、それに母も弟に関してはどこに行くのも手放さなかった。
私にとって両親のもとで過ごす学校のある期間は苦痛なだけ。
中学生になると大学まである女学校だったので電車通学、私自身の行動範囲も広がり救われた面があった。
  
 2017/04/22
 
 木曜日、弟嫁が母を食事に連れて行ってくれた。
「何をたべたいですか?」と聞くと「お好み焼きが食べたい」と。
父は「行かない」と言ったそう。それは誰もがわかっている事。
これまでは誘っても「父を一人にしておけない」と行かなかった母
父を部屋に残しても平気になったのは痴呆が進んだせいなのか?。
でも母自身も楽しむそれもありかな、と思う。
施設に入ってから、最初の3か月は元の自宅の近くの病院に車で送って行ってたが、整形外科・内科・泌尿器科・歯医者それに銀行など。
それも施設の方で診る事が出来るというのでこの1年半で父母はますます外出の機会がなくなった。
昨年父が1ヶ月入院した時、母と息子と3人でお好み焼き・お寿司・ウナギ・餃子など食べに行った。
1年もたっていないが母は覚えているだろうか。
  
 2017/04/20

フリージャー 
 今年もフリージャが咲きました。いい香り!
昨年余り肥料をやってなかったのかなぁ。花が少ない。

土曜日のケーキの事、母 認知症が進んで来てからやたらと食べるようになった。食事の事に関してはずっと以前自宅に居る時から「美味しくない」「入らない」が口癖だった。いろんな理由からそれもわかる気がする。
施設に入ってからキッチリと時間が決まり良かったと思うが、痴呆が進んできた今もともと好きだった甘い物をあるだけ食べている様な気がする。その結果 御飯が美味しくないと言い施設から出るご飯を残し、甘いものを食べたい時に食べ、お腹をこわしヘルパーさんに迷惑をかけた。
「御飯は残さず食べる」栄養面からもそれを注意したが、どうなんだろう?
一緒に住んでいれば…でも冷蔵庫に鍵を掛ける事もできず、それ以上のストレスの方が多いだろう。
この食事だけを取り上げてではなく生活全体を考えても施設にお任せしたのがやっぱりBestなのかも…。
施設に入居されている方の御家族はそんなに再々は面会に来られないとの事。施設では施設のスタッフを頼ってほしいのでその方が良いと聞いた。
  
 2017/04/17    今日弟嫁Mさんが、両親の介護認定の人が来られるので施設まで行ってくれた。ご苦労様でした。
昨年は身内が誰も立ち会わなかったからか、それはわからないが介護程度が上がって「エーッ」と云う額になっていたが…。
今年の認定は「介護」ではなく「支援」になりそうです。
私の財布から出るわけじゃないけど、Mさんホントご苦労様でした。

土曜日施設に診察の事で行った時、弟夫婦が行くと言っていたので、何もできない私だけど、やっぱり気持ちだけでもと、父母弟夫婦の分4個のケーキを買って持って行き母に「4人で食べて」と何度も言って台所に置いてきた。けど気になって電話してみた。その時Mさん言えなかったのですね。わかります!!!
母はすぐに食べていた。 私の言ったことは何も伝わっていなかったみたい。
弟嫁と話す。わかる事ばっかり! 私だったら「私の親じゃない」と云うだろう。それでも、なんやかんやと言いながらもやってくれるのは、息子曰く「Mさんの性格」だそうです。でもそれをするのはしんどい事では?
私も両親の事では何かあると胃腸が…です。要するに下痢。
仕方のないことです。
こんな事私がその年になったら……どうなるんでしょうか。
  
 2017/04/16    金曜日、ゴルフから帰って来たら留守電にメッセージあり、広島の伯母の成年後見人の方から。
伯母は母の姉にあたるが、母ももう訪ねて行くことは無理だし、後見人の方の話も聞けないだろう。窓口は私。
話を聞けば本当に良くして下さっている様子。
墓のある所も調べ、グループホームではもう生活が出来ないと特別養護老人ホームに入所させて下さり、詳しくメールを送ってくださった。
近い内に一度伯母の顔を見に行きたいとは思っているが、私も何年か前の様に自分で車を運転して行く自信がない。
昨日施設の両親を訪ねたが、相変わらずカーテンを閉めた薄暗い部屋でテレビがついていた。
認知症も時間と共に変化していくのだろうか?人それぞれ仕方のない事だと思うが、この頃「ここにいたくない」とは言わなくなった。
昨日施設の看護師さんが「年齢からしても薬を飲んでいても良くはならないし進んでいくだろう」との事。
  
 2017/04/06
 
両親が年を取り始めた時、87才位からだったかな、心に決めていたことがあった。
「後悔をしたくない」と。
それは母が自分の両親のめんどうを見ていたもう30年以上も前の事、母は父の仕事を手伝いながら介護していた。その時の事を今言っている「今になって思う事はもっとああしたかった、こうしたかったと云う事ばかりだった」と。
母はよくやっていたと思う、自分たちの家の事、会社の事、その中で自分の両親の世話をして。母には姉と弟がいる。それぞれに配偶者もいる。でもいろんな事情はあったと思うが姉弟は何もしなかった。
今ほど公的な助けもなく、どちらかの親が入院すれば「家政婦紹介所」に人を頼んで頑張っていた。
私は今心の中で葛藤している。
「後で後悔する事を少しでも少なくするために今出来る事はしよう」
と云う思いと、以前の両親と違ってしまっている両親と接する辛さ。
両親の本来の性格なのか、本能なのか、今日までの生活環境がそうさせるのか、そのどれもに当てはまるのだろうと思う現在の言動。

僅かな心の平安の日が、と思っていたら…今日電話あり。
やっぱり、  今胸の内はドロドロの排水管状態。

今日「ゴミ出し」に行く道の自動車進入禁止用のポールのセメントとアスファルトの隙間からスミレの花が満開に。それと公園の雪柳です。ちょっとピントが合ってなかった。
  
 2017/04/05  
庭の木蓮
桜より一歩早い開花
 しばらく両親のいる施設に訪ねていっていない。
顔を見ていない、と云う単純な事である、顔を見てそれ以上の事を感じられたらと思うのだが。
親子だから(?)かな、それとも私がいつも一人で訪ねるからかな?
これまでに2度、金銭で嫌な目にあっている。
しかもいつも私。
これまでよそ様ではそのようなことを何度か聞いていたけど、まさか自分の身に起こる事とは思ってもみなかった。
一度目は、私のこの性格、聞いてすぐ冷静ではいられなかった。
今後一切関わりたくない 心に蓋をした。
けど時間の経過と共に口には出さなくなったけど。
二度めは、一度目の事を気にしないつもりでいたけど心の中でしこりになっていて「何で私やねん」となってしまいました。
起こるべくして起きた事、でしょうか?
これが年老いた親と付き合うと云う事でしょうか。
こんなこともスラッと受け流すべきなのでしょうか。

本日また母が「お金がなくなっている」と言っていたそうです。
私しばらく行っていないので私の名前は出なかったそう…。
両親がそんな状態にあると理解しているのに平然と受け止める事が出来ない私が考えを変えるべきなんでしょうね。
  
 2017/03/31  
鉢植えのムスカリ
いつの間にか咲いていた
 明日は母の「アルツハイマー」の診察日。
診察時間の確認のため施設に電話する。
土曜日はいつも弟夫婦が施設を訪ねてくれるのでホント助かっています。
診察は13時からと云う事ですが、多分その時間には弟夫婦は間に合わないのでは、やっぱり私行かないといけないのでは…。
施設の介護室に電話を繋いでもらい尋ねると「何か変った事があれば連絡するので大丈夫です。」!(^^)!
でも思う、これから先多分しんどい事の方が多いと、その時に備えて今は施設に任せても良い事ならそうしたいと。
  
 2017/03/25
 

 こうして両親の事を記していると2年位前からの母の様子が頭の中で何度も繰り返し押し寄せる。
去年の5月頃、まだ物忘れに時々認知症が、の状態で肺炎で入院。過記の老人病棟へ、ある日行くと病室で母が涙ぐんでいた。部屋に来た看護婦がボケ呼ばわりしたので看護婦詰所まで行って「まだそこまでぼけてないから」と言って来た、と言う。
何と言う病院、何という看護婦、アーここはそんな病棟なんだ、と再確認。
もちろん、時間を置かずに今度は看護婦2人で謝りに来た、と云う。

最近の腰痛での入院も同じ病院に入院。半年の間に母の認知症は進んでいた。「家に帰る」と言って聞かず、徘徊をして転んで骨折でもしたらとベットに拘束され 叫び声を、8人部屋だったので他の人が眠れないと今度は部屋の移動。個室の手続きは入院時にしてあったはずなのに、個室の予約確認をすると、その事があってかどうかは定かではないが即個室に移動。たった3~4日で3度の部屋移動。おかしくならない方がおかしい。あの時は夜中の叫び声を聞く側にいたのに。そんな看護婦さんばかりとは思いたくないが、人手不足のなせる事か、でも認知症老人も人間であることを忘れないでほしい。我が親だからそう思うのか。
  
 2017/03/22

 
 庭に来る「ヒヨドリ」の夫婦。果たして彼らは一夫一婦制なのでしょうか?
上の写真がメス、下がオス。
置いてある餌箱の傍でつつき合いのケンカをしている。
嫌なら別れればいいのに…母も最近はこの事ばかり言っている「一緒にいたくない」「顔を見るのも嫌」と。
昨年12月から認知症の検診に行っているが、確実に進行していると感じる。そんな状態で考える事、どこまでまともに信ればいいのか。
とにかく「迎えに来てほしいねん」と云う母に「すぐに行く」とは言えない。
まず、環境が変わる事での更なる認知症の進行
次に、引き取れば肉体的にも精神的にも負担は私一人で背負うことになる。買物に出掛けるのさえヘルパーさんに母を任せなければならないと思う。
その他諸々の煩わしい事も…。
どうしてもっと前に自分の道を選ばなかったのだろうか。
父との70年余りの生活とその中に母の性格を重ね合わせると仕方ない事かも知れない。
  
2017/02/24     施設に入所してから1年3か月の間に母はまた肺炎で2度の入院。腰痛で1度入院。
入院の度に認知症は進行して、夜中の徘徊も…。
施設の提携病院への入院は徘徊を理由に「付き添い」を要請。
家政婦紹介所にお願いした方、弟嫁、私の3人が交代でPM8:00~AM8:00まで。毎回私は一睡も出来なかった。他の部屋の夜中の叫び声、壁を叩くのか蹴るのか、部屋に置かれた簡易トイレは朝まで捨てられず臭いが部屋に充満。
直線廊下の両サイドは年寄りばかりが入院の部屋。
以前に友達が言っていた「施設が空くまでの…」
何とも言えない重いものを抱えた時間。 朝外に出た時やっと呼吸が出来た気がした。
家に帰って寝ようとしても目が冴える。胸の中にヌルヌルとした気持ちの悪いしこりが居座る。
 
2017/02/21  
去年の桜

父94才、母90才、2014年12月に母が胃がんの手術をして、2015年12月までの1年間は自宅で生活していました。ヘルパーさんが週3回各日2時間、残りの日は弟嫁と私(主に買物の手伝い) 何年も前から施設入所の事は父から弟に頼んでいたのですが、父自身は口では「入所」を言うもののいつまでも自宅でいるつもりだったようです。ところがその1年の間に母が肺炎で2度の入院、周りが黙っていなかった。母が手術の後父は「温泉へでも行ってゆっくりしよう」と何度も言っていた。それも実現することなく…2015年12月末「有料介護付き老人ホーム」に入所しました。
施設からゴルフ、買い物、お友達とのお食事、など楽しんで生活していらっしゃる方も多いようです。
が、両親は入所するのが遅すぎたように思う。
年を取ると環境に慣れるのに時間がかかると同時に認知症を発症する事が多分にあるとの事。母の場合これまでの生活環境からも急激に進行した。
父が何もかもを取り仕切り、母が任されているのは台所の事だけと云う生活環境。無理もないと思う。
現在は24時間 自分の部屋と3食の食堂との往復だけ。
父は何も感じないようだが…「お母さんが可哀そう」と弟嫁は言う。
けどその父を放っておけないのも母なんだから………。
 
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